突然ですが、移転します。

そこでも、いままでどおりマイペースを越えたマイペースっぷりでの更新となると思います。

でも、そこそこのこのこと更新しようと思います。




これまで、気まぐれでぶきっちょなnanoのバタ足泳ぎを覗いて下さった方々、ありがとうございました。

また、これからも、気が向いたら上記のほうでお付き合いくださいませ。

そっちでも、泰然と悠然と時には憮然呆然と、つまり nano然と して、今度はてくてく歩いていると思います。



(私信)

リンク結んでくれていたあなたやあなたは、勝手にこちらにリンクしています。

知らない間に移転してしまったあなたは、古いほうをリンクしています。

どうすればいいかな・・・?

時間を見つけて再度リンク申請しようとは思っているのですが、なにぶん無精者です。

もっかい繋がってもいいよって方で、業を煮やした方は、連絡下さい。善処します。

GREEのほうは、まだしばらく古いほうで、気が向いたら新しいほうに切り替えます。

特に意味は無い、なんとなく。

日々いよいよ冴える月を見ながら夜11時に帰宅する毎日です。



いま、来年の2月ごろに、ミュージカルの公演を打つ準備をしています。

息苦しくなる時もあるけれど、完成した舞台を予想してはにやにやしています。


泣きたくなるときもあるけれど、仲間と話しをしているうちに、

なんのために泣きたくなるような思いをしているのかだんだん思い出してくる。


すごく明るくて、パワーが溢れていて、観たひとのこころをポカポカかっか照らすような舞台を作るんだー。



周りを見回すと、同じように幸せそうな顔をして死にそうになっている仲間がいる。

それはとても心強くて嬉しいことです。


だから、

ダンスの振り付けが浮かばなくて不眠でも、

毎晩夢の中でダンス曲にうなされて不眠でも、

風邪引いて授業に出る気力も出なくて不眠でも、

キャストやスタッフの仲間と一緒にいられる今の時間がとても大切で、見事に必死です。



しかし、

見事に必死な自分があまりにいかにも「学生」していて、笑ってしまう。




・ ・ ・あと4ヶ月の準備生活を大事にすることは、あと5ヶ月の学生生活を大事にすることだと思うことにする。



卒論あるけど。

すごく尊敬しているひとがいる。
もう話さなくなって久しいけれど、そのひとの考えていること、いまの生きかたを風の便りで知る。
なんともいえない気分になる。
なんだか胸が苦しくなる。
そのひとは(誰もがそうであるように)決して完璧ではなくて、(誰もがそうであるように)自分でもそれを自覚している。
そして、その上で、自分のありかたとか、やるべきこと、やりたいことを、見つめて、実現しようとしている。
それが苦しみをともなうことだとしても、いや、それは実際、苦しみをともなうことが多いのだけれども、逃げない。
あ、逃げたこともあるかも。
でも、逃げていた逃げている逃げそうになっている自分も見つめて、それでもそれに打ち勝って進もうとしている。
弱いけれど、弱さと闘うことのできる強いひとだ。
今、海外にいる。
2001年の春からこの春まで、履歴書の文面だけは私と同じだ。
でも、その同じ履歴の裏にある5年間は、全く違う。
2001年、私はあの大学で何をしていたんだろう。
2002年からいままで、この大学に入って何をしてきただろう。
自分の経験が、何も価値を持たないというわけではない。
でも、そのひとの進むさまを風の便りで知るたびに、はっとする。
自分のありかた、すべきこと、したいと思っていることと向き合わされる。
なまくらな自分がくやしくて、はずかしくて、それで胸が苦しくなる。
環境が変われば、自分も変われる。
私はいつもそうやって逃げる。
なにも今考えなくとも、社会に出れば、働き出せば、すべてが解決するとか、そんな甘っちょろいことを考えていてはなにも進歩しない。
まためっきがはがれてしまった。

職探し選考に、時折性格テストがある。適性検査とか呼ばれることもある。


その中に「抽象思考が得意」だとか「抽象的に考えることが苦にならない」だとかって項目があるんだけど、あれっていつも意味が分からない。

抽象思考ってなんだい?


最近講義を受けていてふと思ったこと。

私は、講義で述べられることを、(それがどんなことであれ)

自分の身の回りのことに置き換えたり重ねたりして実感しながら聞いている

のではないかということ。


それってつまり抽象性よりは具体性に重点をおいて生活しているということ?

そんな捉え方でいいのか?!わからん。


・・・一体、「抽象思考が得意だ」というのは、例えばどういうことを思考することが得意なことを指すの?



考えること自体は苦にならない、

だからそれが抽象的だろうが具体的だろうが苦にならないはずだ、と自分では思っているのだけれど、本当のところはどうなんだろう。。。

誰からも必要とされていないと感じるとき、孤独だなあと思うんだけど、

誰でも多かれ少なかれ孤独を感じたり感じなかったりしながら日々を過ごしているんだろうと思う。

周りのことにも目をやれないまま、自分のことだけにかまけて孤独だなどと言っている自分の甘えに気付いてしまうと、背中が冷たくぞっとして胸の辺りがずしっと重くなる。

でもこんなこといってられるんならまだ大丈夫なはず。

どうせ自分も調子の良いときには孤独なんて微塵も感じないんだ。

大丈夫だ自分。

まだまだやれるぞ私。

まだまだやるぞ私。

ん、がんばる。

久々に大学が楽しい。
わくわくする。

職探しでたびたび休むことになるのが、本当に悔しくて悲しい。


講義を聴いていると、どきどきする。

「学問」には至らないけれど。。。


私の「大学は楽しい」は、学ぶ、研究する、とまで発展はしない。


そのことは大学2年の時に自覚した。

講義外であっても、知りたい、学びたい、といきいきと勉強する人々を沢山目の当たりにしたから。

私には、学問に対してそこまでの情熱は生まれなかった。


高校時代の部活動、朗読だとか番組制作だとか、

大学だったら放送研究会の活動だったり、

ミュージカルやダンスの舞台だったり、

そういうことの準備はどんなに大変でも辛くても面倒でも泣きながらでも苦しみながらでもやったのにね。


でも、未知の世界を少し覗くことはとても楽しいことだ。

ひとつのことに情熱を捧げている人物(つまり学問ならば教授)の話はとても面白い。

面白い=interesting というのが学問と言うものに対する正しい言葉なのかもしれないけれど、entertaining!でもある、と私は思う。


私は決して熱心だったり有能だったりするような“良い学生”ではないけれど、

でも、今、触れられる世界には一生懸命触れようと思う。

だから、私なりに言わせてもらう。

「学問」は楽しい。

そんな大したことじゃないんだけど。


何かを思い出せそうで思い出せないとき、

必死で思い出そうとすることは脳みそにいいらしい。

特に、考えに考えてやっとこさ思い出せた瞬間、

脳はものすごーく活性化するらしい。

本当かどうかわからんけれど、昔学校の先生がそう言っていました。


中学校の英語の試験の英単語の問題で「国際交流」と書けというのがあった。

当時英語は得意科目で、しかも凄く見覚えのあるはずの単語で、時間中さんざんねばったんだけど思い出せなかった。

脳は活性化したけれど思い出せそうで思い出せなかったことがあまりに悔しかったので、「international exchange」という単語は絶対忘れないことにした。


今日も一つ試験を受けてきた。筆記試験:SPIみたいなのと、一般常識。

一般常識に国語があった。


作者を問う問題。

・「老人と海」

・「菜の花や月は東に日は西に」

・「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」


常識問題なんだけど。。。出てこない。

おかしいおかしい。


ロシア人の作家の名前を片っ端から並べても出てこない出てこない。

国語便覧の菜の花と月の写真は浮かぶのに出てこない出てこない。

「針やはらかに春雨ぞ降る」は出てくるのに出てこない出てこない出てこない。


高校時代、国語便覧は娯楽でした。

すみずみまで読んで楽しんでました。

nanoの「なの」は「菜の花」のナノなのに。

「菜の花や」は大好きな句だったのにー。


出てこなかった。


帰りに本屋に駆け込んで岩波文庫の棚の前で崩れ落ちました。がっくり。

脳の活性化とかどうでもいいからすんなり出てきて欲しかった。。。



二度と絶対忘れない。


ヘミングウェイと与謝蕪村と正岡子規。


絶対忘れない。


今夜は久しぶりに便覧読んで寝ることにする。

いろいろないろをみてきました。


今日、カラー講座を受講しました。


どうがんばっても顔がげっそりして見えるピンクの服と、

どうがんばっても風邪気味のように見える緑の服と、

どうがんばってもみかん食べすぎたように見えるベージュの服。


着方がわるいのかとひたすら自分のセンスの無さを嘆いていたけれど、

人にはやっぱり似合う色調というのがあるらしい。


それも、ブルーが似合うけど赤がだめ、とかいう狭量なものではないらしい。

みんな、似合うブルーや似合う赤を持っているらしい。


とても勇気付けられることだ。


春夏秋冬それぞれパターンがあって、私は春だそうでした。

夏生まれの私としては、ピーカンの夏色!といきたいところでしたが、

春も春。明るい色がたくさんあって、うれしくなった。


私の姿をご存知の方、今度あったらちょっと派手やかになってるかも。私。あしからずー。

私の祖父は九州男児。

話す言葉はなんだか強くてあたたかい(たまに荒っぽいけど)感じのする福岡の言葉。

高校の修学旅行先は長崎(と佐賀)。

大学生の母も歩いたらしい、坂道の多い町の形や色彩に、なぜか物凄い勢いで迫ってくる懐かしさを感じた。


そんなわけで、なにかと九州は私の心をくすぐる存在です。


下にもちょびと書きましたが、先月大分に行きました。

どんなところだろうと胸躍らせて行きました。

すると、これまたなんだろうよく知っているような感覚のする場所でした。

ただ、どこかにかならず“南だ!”という匂いが漂っているのを感じました。


サークルの友人の出身高校を見つけ出しました。

東京での顔しか知らないひとが、ここで育ったんだなあと思うと、なんとも不思議な。

さっきすれ違ったひととも、出会ったことがあるのかもしれないだとか、考えてみたり。


大分のおばちゃん、親切。

道に迷ってるスーツ姿の学生が不憫だったみたいで、駅のみどりの窓口の前まで送り届けて下さいました。

さらに旅のお供にパンまで頂いた。

よほど路頭に迷って野垂れ死にしそうに見えたらしい。

確かに、面接大失敗に疲労がのっかって行き倒れ寸前だったんだけども。。。


でも、行き倒れ寸前のよろよろの目にも、特急「ソニック」は格好よかった。

ハンサムでおしゃれで余裕のあるあの風貌! また乗りたい!! 

トラックがロボットに変身して戦うアニメみたいに、立ち上がりそうな顔をしていた一両目。

小学生の時好きだったあれ、なんて名前のアニメだったろうか。

後輩に教えてもらったけどわすれたな。


ものすごく支離滅裂ですが、九州のイメージの中に、新しく「大分」カテゴリが登場しました。

なんだか忘れたくないのでばらばら書きました。


なぜこんなに九州関連に惹かれるんだろう。

意識しては無いけれど、、、やはり、なのでしょうか。

そんなことって、あるのだろうか。単なる興味か。。

ご無沙汰しております。

 

こないだ記事を書いてからひと月以上の留守をしてしまいました。

その間に何をやっていたんだろうと、手帳を見てみますと。

 

まず、学校の春学期が始まった。

←3年ぶりにロシア語を勉強しています。楽しい。

 

次に、職探しは相変わらず。

←一進一退。まさに3歩進んで2歩下がる毎日。

 

最後に、・・・んあー?

←このひと月ずっとこんなかんじ。進捗なし。

 

 

あ、でもでもでもこのひと月の間に、

大分に1回、大阪に2回、茨城に1回、富山に1回☆

行きましたー。

 

それは職探しであったり、大型連休であったり様々ですが。

未知の土地に行くって素敵。

大阪と富山は未知じゃないけど久しぶり。

特に富山は、人間になってから(自分を人間だと認識してから)初めての訪問。

飛行機乗ったり新幹線乗ったり特急乗ったり在来線乗ったり。

目的はどうあれ旅はいい!移動(?)大好き。

 

あああ旅したい!!!

 

こんなひと月でした。

ざっくりまとめました。